――日韓共同作品『オセロー』についてのお考えをお聞かせください。
現代は多様性の時代であり、これを示すための一つの方法として、今回の日韓共同作品『オセロー』があります。平川祏弘氏の戯曲が非常に面白いのは、この多様性を備えているからです。今までのシェイクスピア翻案は台詞のイメージのみを変えたものが多かったのに対して、平川氏は能の形式を用いてまったく新しい文章を編み直しています。能の形式はシェイクスピアの原作とは直接には関係ありませんが、原作を取り巻く文化的背景、抑圧的な時代背景、人間に関する哲学的な問いを包み込んでいます。「『オセロー』、その後」とも呼ぶこともできる異色のシェイクスピア翻案です。殺されたデズデモーナがどれほど悔しかったのか、何を言い残したかったのかを、夢幻能の形式と幽霊の身体を借りて表現しています。死者の口を借りる日本の能を通して、シェイクスピア悲劇に対する独創的な解釈と同時に、新たなるインターカルチュラリズムの方向性も示しています。インターカルチュラル演劇の次の段階に行くために、今回の私の演出では、魂を招く儀礼である韓国の招魂劇クッの形式を用いました。
シェイクスピアの世界は閉じておらず、常に開いています。オープンドラマだからこそ、日本の能、韓国のクッにも合わせることができます。このオープンさにこそ、シェイクスピア演劇の偉大さがあります。ひとつの芝居の中で英国のルネッサンス演劇、能、クッという異なる三文化の個性を保ちながら、共存させることも可能なのです。今回の『オセロー』では、日本の能の張り詰めた精神性に、解放され、弛緩した状態である韓国の「プリ」を入り込ませました。緊張と弛緩の間を行ったり来たりする新しい芝居を作りたいと望んでいます。シェイクスピアも天国で喜んでくれるようにね。
私はこの公演に、ベネチアが大陸の韓国で、サイプラスが島国の日本という隠喩をも織り込んでいます。オセローはサムライ的な将軍で、原色のイメージがある。デズデモーナは朝鮮女性で、パステルカラーが似合う。根拠のない噂がもとで夫に殺されたデズデモーナの話は、今日においても現実味を帯びています。私は1952年生まれですが、私たち以前の世代は、男性が非常に強く、女性が服従的でした。女性はたくましくなりましたが、今でも男性中心主義は根強く、男女間の不均等は完全には是正されてはおらず、女性は多くの被害を受けていると考えます。この『オセロー』公演では、女性に加えられる不当な社会的暴力をも強調したいと思います。
――なぜ夢幻能『オセロー』をさらに翻案する国際共同プロジェクトを企画されたのでしょうか?
アジアの国際芸術祭に関わる者として、単に自国のパフォーミング・アーツを紹介し合う時代は終わり、芸術家同士がコラボレーションをして作品を作る段階に来ていると考えています。これまでもシェイクスピアという共通の土台で芝居を作るという企画はありましたが、アジア人同士がコミュニケーションを図るときに英語という共通言語を使わざるを得ないように、欧米から輸入した「ユニヴァーサルな」ボキャブラリーを共有するに留まることが多かったように思います。もっとお互いの身体に染み付いている固有性がぶつかり合う土俵を用意しないと、コラボレーションの意味が浅くなってしまうと懸念していたときに、この『オセロー』の翻案プロジェクトのアイデアが浮かんだのです。能の語り物は日本の芝居の一大源流ですが、純粋に日本独自のものという訳ではなく、口寄せ、シャーマニズムの一種であり、東アジアの様々な所に類例が見出だせるものです。この『オセロー』を、伝統演劇と現代演劇に造詣深く、言語と身体の関係性に鋭い洞察を示す、韓国のイ・ユンテク氏に演出してもらうことによって、互いの固有性がぶつかり合うようなコラボレーションが可能になると思ったのです。
――能とクッによる二つの『オセロー』公演を比較されて、どの辺りに日本と韓国の間にある共通点と差異を見出されましたか?
共通点でいえば、無念を抱え込んでいる人物を演じ直すことによって、その人を無念から解き放つ演劇の力でしょうか。御領信仰とも呼ばれますが、ある土地に対する何らかの念を残した死者の物語を共同体の中で再現することによって、念が解け、共同体を守るよいパワーになる。これは日本の演劇の根源的な機能ですが、韓国のシャーマニズムにも、イ氏の公演にも共通して見られるものです。念は韓国の恨(ハン)に通じるのですが、訓読の「恨み」とは印象が異なり、僕の言葉で言い換えると、海底の沈殿物のように体内や心の奥深くに降り積もり、堅くなっている何か我慢した感情です。5年生きれば5年分、90年生きれば90年分、人間は生きていく上で堪えなければならないものがあります。韓国の恨を解くというのは、その積もり積もった我慢や辛さを開放する手段だと僕は思っています。
日本の能の場合は、平川氏の言葉を借りれば「人生の危機的な瞬間」に、無念が集約されるのに対し、韓国のクッの場合は、一生に渡って日々少しずつ降り積もっていく黒い雪のようなものだと感じています。イ氏の演出では、オセローとデズデモーナという選ばれし英雄の無念からの解放というよりも、誰の中にでもある恨みからの解放という庶民的、大衆的な側面が強くなっています。最終的にはデズデモーナだけではなく、誰も彼もが解放され、日常が明転するという演出になっていて、これは僕には思いつかなかったやり方です。