フェスティバル/トーキョー 特集

『花は流れて時は固まる』特別寄稿 乗越たかお

 2002年、黒田育世はデビュー作の『side B』、続く『SHOKU』と立て続けに発表し、一躍注目を集めることとなった。その強烈なダンスは、口先でコンセプトを語っているだけのトロくさい連中を吹き飛ばしたものである。以来、確固とした世界観、そして踊る魂の核心を掴みだし、容赦なく観客に突きつける作品群で、日本のコンテンポラリー・ダンスの最前線を走り続けている。

 時に暴力的・性的と見られる動きも大胆に取りこみつつ、決して俗に堕ちることなく、ましてや欧米にありがちな露悪にも走らず、凛とした清廉さを失わない。その秘密は、黒田の身体性が、いまだ少女のような無垢さを保っているからだと筆者は見ている。といってもリリカルなものではない。むしろ子どもならではの、時に残酷なまでに身体を追い詰めていく視線が、通俗的な仕草とは似て非なる世界を創り上げていくのである。そのあたりは、ぜひ作品を見てご確認いただきたい。

 今回上演される『花は流れて時は固まる』は振付家としての黒田育世の転換点たる作品だったと思う。というのも、舞台を貫く振付家の視座に変化が見られるからだ。『side B』『SHOKU』では、黒田の内面世界に観客は呑み込まれ、熱く煮えたぎるエネルギーに翻弄された。そして少女の固い身体の内側に滑り込んでしまったかのような息苦しさに観客は喘(あえ)ぎつつ、舞台の奧に光る振付家の視線を絶えず感じていたのである。
 しかし『花は流れて時は固まる』にいたって、その圧迫感は消えた。パークタワーホールという劇場の大きさもあるだろうが、本作は一つのスケール感をもって構成されたのである。
 タイトルの「花」も「流れ」も、ともに時の移り変わりを連想させる。舞台上では実際に花と水が象徴的に使われつつ、最後には全てを凍り付かせるようなカタストロフが訪れるのである。そして灼熱のダンスの合間に、冷気のような風が渡っていく瞬間がある。振付家の視座は、舞台奧ではなく、舞台全体を俯瞰して存在している。そのため観客は、優れたダンサー達と共に黒田のより大きな世界を経巡ることになるのである。
 
 筆者は、この作品を二つの場所で見ている。パークタワーホールの初演(2004年)と、ヴェネツィア・ビエンナーレでの公演(2007年)だ。
 この年のヴェネツィアのダンス・プログラムは変わっていて、ことさら日本特集と謳っているわけでもないのにオープニングの4演目を全て日本のカンパニーが飾った。ディレクターを務めたイズマイル・イヴォは「いまとても素晴らしい日本のダンスを、どうしても見せたかったのだ」と語った。その中でもBATIKは唯一、『SHOKU』と『花は流れて時は固まる』の二演目を公演し、注目を集めたのだった。
 劇場は TEATRO MALIBRANという、豪華な内装のオペラハウス。ただ「客席から見て床の位置が高いため舞台前面の水を張った溝が見えにくい」「固定されているオーケストラ・ピットを挟む形で見るため舞台が遠い」などの問題はあったが、真に優れた作品は旅先の悪条件などを吹き飛ばしてしまうものである。劇場は満員で、最後には拍手喝采を得ていた。

 現在、欧米のダンスの主流の一つに「痛み」を提示するスタイルがある。もはや単純な愛やコミュニケーションが白々しく映ってしまう現代において、痛みこそが身体(裸体)を実感させてくれるからである。彼らは身体を剥き出しにし、観客の前へ投げ出す。
 しかし本作で黒田は激しく身体を追い詰め晒しながらも、決してそれだけで終わることはない。魂でつながり合おうとする絆をあきらめはしないのだ。これはその後の全作品にも通底していることである。そしてそれこそが黒田育世の、次世代の作り手として最も筆者が期待するところだ。ヴェネツィアのとき、若い観客の中にはスタンディング・オベーションをしている者もいた。イタリアの観客にも、黒田のダンスは強く深く響いていたのである。
 もちろん作品は、今回の再演でまた変わっていることだろう。絶えず進化し続ける、新しい試みとして、公演を楽しみたい。

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乗越たかお(NORIKOSHI TAKAO)
 作家・ヤサぐれ舞踊評論家。海外でも翻訳されベストセラーとなった『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)は多くの大学等 で採用されている。『ダンシング・オールライフ〜中川三郎物語』(集英社)など著書多数。06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタ リアのフェスティバル『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター、08・09年のソウル・ダンスコレクションの審査員。近刊は「シアターガイド」誌、 「DDD」誌で連載中のエッセイ等をまとめた『どうせダンスなんか観ないんだろ!?』(エヌティティ出版)