【クルーレポート】ポストパフォーマンストーク ロメオ・カステルッチ×飴屋法水×相馬千秋

2009年12月12日(土)
ロメオ・カステルッチ×飴屋法水×相馬千秋
『神曲-地獄篇』 ポスト・パフォーマンストーク

イタリアの文豪ダンテの『神曲』に着想を得、今日の形而上学として再構築したロメオ・カステルッチの話題作、『神曲』3部作。いよいよ第1部の地獄篇が12/11(金)より東京芸術劇場 中ホールで公演開始、翌12/12(土)にロメオ・カステルッチ氏と飴屋法水氏の対談が行われました。進行役は、F/Tのプログラム・ディレクターである、相馬千秋。通常は、同じF/T出演者に限定して、話をしてみたい人をヒアリングし、対談相手を決定しているが、今回だけは意見を聞くこともなくキャスティングしたのだそう。
相馬千秋曰く、"この2人は、他人には思えない!まずは、年齢が一緒。そして強烈な音響世界とビジュアル。劇内に動物が出てきたり、壊れた"物"をモチーフで多用するのもそう。共通点が沢山あって、直接話したら、どうなるのかなって思ったのです。

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相馬「まずは、飴屋さんに質問。この『神曲―地獄篇』を観た感想を教えてください」
飴屋法水氏「昨日も今日も見ました。見てすぐ感想をいうのは難しいのだけど・・・個人的な感想を言えば、海、空、雲といった自然物を見ているのと同じ感覚だった。雲を見て、海を見て飽きることがないように、延々と見ていたい。ものすごく人工的な意匠をやっているのに、自然を見ているのと同じ気持ちになるのが不思議。それも、彼の持つ大きな逆説なのだと思うのだけど。」
ロメオ・カステルッチ氏「観客の感覚ですが、健忘症のような印象で見て欲しい作品。目にみえることは忘れる。風景をパノラマで見ているような気になってくれたら嬉しい。だから、飴屋さんの感想はこれまでの中で一番ステキだ。先程も触れたけれど、観客の感覚は基本であり根本だ。残念ながら飴屋の作品はビデオでしか観たことがないが、"観客が重要"だと感じた。そのところはどうですか?」
飴屋「・・・観客が重要って、どういう意味??」
-観客、苦笑-
ロメオ「例えばね、鏡。私の作品でも鏡は登場し、自ら(観客?演者?)の姿を見せている。それは、次の作品の予告を表していることにもなると思わないですか?」
飴屋「演出という立場にいるからかもしれないけれど、観客と舞台上の区別が分からない。それが、正直な感覚。質問からズレるかもしれないけれど、虚構や現実も僕には分からない。だから、舞台上は虚構です、とかそういうものもよく分からない。虚構じゃない現実はないと思うし、皆が舞台を見ているという時点でそれは現実のことだし。逆説かもしれないけれど一方で、舞台上でリアルを感じる、というのも、虚構だと思うし・・。」
ロメオ「私にとって、演劇は虚構。しかし、それを越える何かがあるのではと思っている。舞台や芸術を見ていると、丸裸にされていると思う。つまり、虚構ではあるけれども、真実を見つけるための作業だと思っている。これは、あくまでも個人的な意見だけど、なぜ人間が演劇を発明したのかといういと、言葉では表現できない何かがあると思ったから。演劇とは、実生活に一番近いアートなのではないか。時間の経過があり、肉体が目の前にある。NO.2(ナンバーツー)-―第二の人生といってもよいのでは?」
飴屋「なんだか・・・。ロメオさん、動物が好きでしょ?僕も動物や植物に興味がある。小さい頃から興味がある。ロメオさん、農業をやっていたのだっけ?」
ロメオ「はい」
飴屋「なぜ?」
ロメオ「飴屋さんと同じ理由だと思う。僕は農業学校で学んでいたのだけど、それは動物と一緒にすごせると思ったからね」
飴屋「動物が好き?」
ロメオ「はい。私にとって、動物はエッセンシャルです」
飴屋「なぜ?」
ロメオ「動物のいない人生なんて考えられない」
飴屋「ロメオさんの作品には強烈な俯瞰のまなざしがあるけれど、小さい頃から動物を見ているから視点が違う。僕は小さいころ、部屋でコオロギとか買っていたのですね。時期になれば交尾がはじまり、そんな様子をさんざん間近で見ていたので、自分が年頃を迎えたとき、ああ、発情期になったのか・・・と(笑)」
-観客、苦笑-

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ロメオ「そうそう。飴屋さんはフクロウと共に生活していると聞きましたが・・・」
飴屋「フクロウは人間に似ていると思ったのだよね。猛禽類の中では、身体能力が一番低い。だから用心深くなって、目や耳を発達させた。身体能力部分位以外を発達させるなんて、人間のようだ。それに、目もまっすぐ向いているのも同じ。その当時は、子供を育てる気がなかったので、フクロウを子供代わりにして共同生活をしていました。都会だと狭苦しそうでかわいそうになり、自然豊かな土地へ越して放し飼いにして暮らしていたら、ある日、他の動物に食べられてしまって・・・失敗した。それから、人間は人間の子供を育てたほうが良いと思うようになり・・・今では人間の子供を育てています。実は、今日の舞台にも出ていました」
ロメオ「ははは!ほんとうに面白い」
飴屋「舞台の話に戻りますが・・・この地獄篇は、アヴィニヨンでは劇場でやっていたのですよね?今回は室内だけど、とにかく黒の使い方がすごいなぁ・・・と。闇・・・闇って色がないでしょ。つまりそれは黒で、――黒いと白は色がない状態で、どちらも同じ状態を指すわけじゃない。完全に闇にはいると、黒も白も意味がない。」
ロメオ「作品は、ダンテの神曲。彼はイタリア中世の作家。イタリアのカルチャーにおいて、最も多大な影響を及ぼした存在で、彼も、完全な黒と白は入れ替わると言っています。だから、黒と白は渾然一体。神の光に白を見た人は、完全に黒に堕ちていく。闇に向かった人は、その真ん中に白い光を求めていく・・・」
飴屋「天国と地獄は、逆説ということ?」
ロメオ「そうかもしれない。ボーダー。密接している。」
飴屋「そんな闇に照らされた人間の営み。それはとても俯瞰的で、個人という感覚で見れば、人間なんて小さいし悲しいもの。舞台上にはエキストラがたくさんいるけれど、エキストラとはつまり誰でも出来ること=差異はなし。同時に、とても小さなことだけれども差はあると思う。たとえば、バスケットボールを持つ男の子とか、ほんとうによかったもんね。最終的に人間を肯定しているし、美しいと感じる自分がいるし。繰り広げられているのはろくでもないことなのだけど、最終的には美しく見える。・・・・どんな言葉を選んでよいのか選択できないけど、わかんないけど、雲や森や空を美しいと感じるそれと、同じなのです」
ロメオ「舞台作品を感じる、理解するのはどういうことかなと考えると、アンチ人間だという要素は沢山ある。一歩引いたところに、私たちははじめて姿を感じる。それは例えば、animare(英語:animal)。"魂を授かっている"という意味を持つのですが、舞台に動物を登場させるのは、人間にない"何か"を持っているというアクションなのです。ドラマでもなんでもない。ありふれた地獄というのは、人間関係の中にあるということなのです。」
相馬「なるほど。少し話題を変えましょうか。ロメオさんに質問です。作品にアンディ・ウォーホールを登場させた理由はなんですか?
ロメオ「彼こそが、非人間性と正面から、向き合った人物だからです。」
飴屋「最後の交通事故のシーンだけど、僕も実は使ったことがあります。」
ロメオ「面白い偶然ですね!」
相馬「では、もう一度、ロメオさんにとって現実とは何か?という質問でしめようと思います」
ロメオ「個人的には、常に現実とは粉々になっていくもだと思います。演劇は、ある種のセラピーとは思わないけれど、私は助かっています」
飴屋「うーん・・・ちょっとわかんないけど・・・・あ、でもちょっとわかった。」
-観客、苦笑-

このようにして、気がつけばポストトーク開始から1時間が経過。『神曲』の感想から始まって、ウォーホールの話で終わるというこのダイナミックなつながりが、まさにロメオ・カステルッチ氏×飴屋法水氏らしい対談でした。


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